落日に立つ (中国の歴史) epubダウンロード
落日に立つ (中国の歴史)
陳 舜臣 / 本
落日に立つ (中国の歴史) epubダウンロード - 陳 舜臣による落日に立つ (中国の歴史)は平凡社 (1987/5/1)によって公開されました。 これには273ページページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、2人の読者から5の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。
落日に立つ (中国の歴史) の詳細
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タイトル : 落日に立つ (中国の歴史)
作者 : 陳 舜臣
ISBN-104582487327
発売日1987/5/1
カテゴリー本
ファイル名 : 落日に立つ-中国の歴史.pdf
ファイルサイズ25.45 (現在のサーバー速度は19.09 Mbpsです
落日に立つ (中国の歴史) epubダウンロード - 内容(「BOOK」データベースより) 孫文たち革命派と康有為たち保皇派との対立は続いていた。一方では、中国の復興は教育に頼るしかないとする蔡元培たちの地道な努力もあり、新しい学問を求めて魯迅たちが日本に留学してきた。最盛期には8000人以上にのぼったという。
カテゴリー: 本
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宮崎滔天や犬養毅は、保皇派(康有為など:清朝皇帝を前提とした改革を目指す)と革命派(孫文など:清朝打倒による改革を目指す)の合作を斡旋する。しかし、元・皇帝補佐役というプライドのある康有為は孫文を拒絶。康有為の保皇会と孫文の興中会は互いの支持者を奪い合うことになる。孫文のお膝元ともいうべき横浜では、革命派から保皇派へ移る者が続出する。その一方、康有為の高弟である梁啓超は革命派に傾いていく。宮崎滔天は、なんとか康有為と孫文を協力させようとするが、逆に康有為門下に「殺し屋」扱いされて投獄されてしまう(宮崎が李鴻章とも接触していたため、清朝のお尋ね者である康有為一派が疑い深くなっていたせいかもしれない)。結局、孫文の奔走により救われたものの、かつて保護した康有為に裏切られた宮崎は康有為と絶縁する。吉田松陰や橋本左内は侵略主義思想をもっていたが、宮崎滔天のように義侠心から中国の革命を支援する者もいた。宮崎は孫文の終生の友となる。児玉源太郎や後藤新平は物心両面から革命派を支援しようとしていた。台湾保全のためには、対岸の福建を平穏にする必要があり、義和団事件で清は統治能力を失っていたから革命派に期待していた。しかし、伊藤博文は、清は統治能力を失っていないと判断し、むしろ清の崩壊は望ましくないと考える。このため、孫文への公的な支援は行われず。孫文(34)は伊藤(60近く)に助力を乞うものの容れられず。清朝は、八カ国連合軍に北京を落とされたが北京以外では秩序はまだ維持されている。これは皮肉にも北京の朝廷の命令に背いて、各地方長官が義和団の排外運動を支持しなかったためである。袁世凱にいたっては義和団鎮圧により政治的発言力をつけていく。清朝はついに改革に乗り出し(乗り出さざるをえず)、科挙を廃止し、満州族と漢族の通婚も許可する。もともと数に劣る満州族は、漢族に同化されるのを防ぐため通婚禁止というアパルトヘイト政策をとっていたが、そうはいっても当時は満州族もふだんは漢語をつかうようになっていたし、皇帝すら満州語ができなくなっていた。国家復興のために国民和解を優先し、満漢通婚禁止令を廃止する。もともと清朝は軍事国家だったが、1851年の太平天国の乱を鎮圧できず、漢族の義勇軍に頼ってやっと鎮圧した。このとき活躍したのが曽国藩や李鴻章の私兵であった、という経緯がある。満州族は、もともとツングース系民族の女真族であるが、女真族は過去に金という国家を打ち立てて北宋皇帝を拉致したという前科がある(金はその後モンゴルに滅ぼされる)。漢族を支配するうえで女真族はイメージが悪いので、「満州族」を名乗るようになる。満州は「文殊」に由来する。ただし、満州の地は特別区とされ、いざというときの避難場所でもあったが、義和団事件による北京占領では西太后は西安に逃げた。すでに満州にはロシアが兵を入れ始めていたからである。太平天国の乱の鎮圧後も新疆ではヤクブ・ベクが蜂起する。清朝はヤクブ・ベクを鎮圧すべきか(塞防派)、それとも台湾出兵した日本などに備えるべきか(海防派:李鴻章はこっちの考え方)で割れるが、結局、陸を優先する。中国は、それ以後も基本的には国防は内陸優先。清朝はヤクブ・ベクを鎮圧(ヤクブ・ベク自身はコレラで死亡)。一方、ロシアは、黒竜江で中国とささいなトラブルを起こして中国人を虐殺(20万以上ともいわれる)。そのまま東北に侵攻して占領してしまう。これが日露戦争の遠因となる。科挙の廃止により、中国から日本への留学生が激増する(一時は8000人以上)。魯迅もその一人で、もともと医者になろうとしていた。これは幕末に新しい日本を創ったのが蘭学者たちだったから、という理由らしい。しかし、中国で治療を必要としているのは肉体ではなく魂であると考えるようになり、魂を治す医者として文学の道に移る。ロシアの東北進出を意識して、日本はイギリスと日英同盟を結ぶ。この同盟が圧力となりロシアは東北を中国に返す条約に調印せざるを得なくなる。しかし、結局、撤兵しない。これが中国の反露感情を高める。そして日露開戦。清と露は日本が攻撃してきたらともに当たるという集団安全保障密約を李鴻章と結んでいた(当時の日本もこの密約をつかんでいなかったらしい)。が、東北撤兵をしないロシアに反感をもっていたため、中国は局外中立を早々に宣言。日露戦争中、孫文はヨーロッパ各地を遊説。革命成功の暁には100ドルで償還されるという債券を10ドルで売り、資金工作も行なっている。一方、孫文の一年前にヨーロッパにやってきた康有為はすでに立憲さえいわず開明君主専制を主張。あくまでも光緒帝に希望をかけている(西太后の死だけを待っている)という状態。もはやまったく相容れない二人。孫文は、5000年の歴史をもつ中国なら、日本をはるかに追い越すはず、とあくまでも楽天的だったらしい(革命家の資質ともいえる)。その他・・当時の中国人は「支那人」と自らを称していたが、これは民族意識の強い人が「清國」とよばれるよりも支那の方がよかったからで当時はモダンな呼び方だったらしい(が、その後の日中関係の経緯により侮蔑的なニュアンスにかわっていった)。また、孫文は、南アフリカのボーア戦争を研究し、ゲリラ戦が中国革命に適した方法だと考えていた。
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